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東京高等裁判所 昭和41年(う)1508号 判決

被告人 小林かほる

主文

原判決中有罪の部分を破棄する。

本件公訴事実のうち、

(一)  被告人が昭和三十七年十月下旬頃の午後十時頃千葉県長生郡長柄町刑部二十五番地伯耆原たか方において、同人に対し「自分は伊藤たつ子方の間借りをして商売をしているが、四、五年前から千円札二、三枚がなくなつたり、一万円札がなくなつたことが何度もある、伊藤たつ子が盗んだらしい」旨話し、以て公然事実を摘示して伊藤たつ子の名誉を毀損したとの点につき被告人は無罪

(二)  被告人が昭和三十八年十二月初頃の午後六時頃右同町刑部八十六番地なる当時の被告人方店舗において、井川ゆきに対し右同趣旨のことを話し、以て公然事実を摘示して伊藤たつ子の名誉を毀損したとの点につき本件公訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は弁護人下光軍二、同上田幸夫、同上山裕明、同小坂嘉幸連名提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。

控訴趣意の一及び二は、原判示第一及び第二の各犯罪事実につき、原判決に事実誤認及び法令適用の誤りがあると主張するものである。

そこで先ず、原判示第一の犯罪事実につき審究するに、原判決の挙示する対応証拠を総合すると、被告人は、昭和三十一年頃から同三十九年十二月頃までの間千葉県長生郡長柄町刑部八十六番地伊藤末義方住居の表側道路に面した約六坪の土間とその奥の三畳間とを借り受け、これを店舗にして船橋屋という屋号で洋品商を営んでいた者であるが、その間一箇月に数回宛同県船橋市へ仕入れに赴き店をあけた留守中に金員が紛失したことが度重なり、はじめは自分の子供達が默つて持つて行つたのではないかと思い同人等に聞き質したがその事実はなく、そのうち諸般の情況から推して家主の右伊藤末義の妻たつ子の仕業ではあるまいかと疑念を抱くに至つたものの、一つ屋根の下に暮している家主、店子の間柄故公けに捜査を求めるわけにもゆかず思い悩んでいた折柄、昭和三十七年十月頃の午後九時頃ないし午後十時頃同県長生郡長柄町刑部二十五番地食料品、雑貨商三ツ又(みつまた)商店こと伯耆原八郎方へ茶菓子を買いに行つた際、同人方店舗内において同人の妻たかと対談中、店をやつていると一寸の油断から物を盗まれることがあるのでお互いに気を付けようという話になつたとき、被告人は右たかに対し、「そういえば私方でもこういうことがある、私方では四、五年前から千円札や一万円札が二、三枚なくなつたことが何度もある、はじめ自分の子供達を疑つて調べたが子供達ではないらしい、結局一つ屋根の下にいる伊藤たつ子が盗んだに違いない」旨話したことが認められる。

被告人が伯耆原たかに対して右の話をしたのは、たとい論旨主張の如く、必ずしも伊藤たつ子の名誉を毀損する目的又は意思に出たのではなく、右たかと対談中たまたま万引の話が出たとき、単に口惜しさの余り不用意にも日頃の悩みを同女に打ち明けたに過ぎないとしても、被告人が同女に話した事柄は明らかに伊藤たつ子の名誉を低下させる虞れのある事実に属し、斯る事実を摘示した以上伊藤たつ子の名誉を毀損すべきことの認識がなかつたものとはいえないから、被告人に伊藤たつ子の名誉を毀損する故意がなかつたものと主張する論旨は、この限りにおいて失当である。

しかし、原審において取り調べた証拠並びに当審における事実取調の結果を総合して考察すると、

一  被告人が伯耆原たかに対して前記の話をしたのは、右たか方が既に閉店し、店舗の表口には雨戸をたてしめた後であり、農村で十月頃の午後九時頃ないし午後十時頃のこと故、往来には殆んど人通りはなく、最早客の入来すべき時刻ではなく、たかの夫八郎はじめ家人はすべて店舗から約二十尺離れた別棟の母家で既に就寝し、被告人は店舗裏口から店舗内に入り、そのほぼ中央部にたかと僅か約二尺をへだてて相対し、被告人とたかのほかには誰もおらない処で低声で話し合い、従つて、被告人の話声がたか以外の不特定若しくは多数人に聞かれる状況は全くなかつたこと、

二  被告人は伯耆原たかに対し、商売仲間だから話すが絶対他言してくれるなと固く念を押したうえ前記の話をなし、たかはこれに応じ、絶対他言しない旨確約したこと、被告人とたかとは昭和三十一、二年頃から格別昵懇の間柄にあつて相互の信頼関係も固く、両名間においては約束が重んぜられ、秘密が保たれ得べき情況にあつたこと、従つて、被告人において、たかが右確約を守り被告人のした話を絶対他言しないものと信じたとしても無理からぬ事情があり、現にたかは右確約を守つて己一人の胸に畳み置き、夫八郎に洩らしたほかにはなんびとにも口外しなかつたこと、

三  被告人は、本件以外にも昭和三十八年七月十六日頃の午後十一時頃静岡県熱海市熱海千九百九十番地ホテルつり堀本館六階十三番室内において佐久間けいに対し、また同年十二月頃の午後六時頃千葉県長生郡長柄町刑部八十六番地伊藤末義方住居の表側道路に面した当時被告人賃借中の店舗内において井川ゆきに対し、それぞれ本件と同趣旨の話をしているが、本件の場合と同様、佐久間けいに対しては、たまたま旅行会で同女と同宿し、二人だけで就寝の際に床の中で固く他言を禁じて話しており、井川ゆきに対しては、たまたま所用で立ち寄つた同女と二人だけいる処で話しており、右両名ともに日頃被告人と昵懇の間柄に在り、しかも佐久間けいに対する談話の時期は本件のそれより後九箇月前後へだたり、井川ゆきに対する談話の時期はそれより更に約五箇月前後へだたり、その間に被告人が本件と同趣旨の話を他のなんびとかになした形跡は全く窺われず、従つて、もともと被告人は伊藤たつ子の名誉を毀損する目的又は意思を以て当初から一連の計画に基づき、伯耆原たか等三名の者に対し伊藤たつ子の名誉を毀損する話をなし、同人等を通して更に不特定若しくは多数人にその話の内容が伝播することを毫も意図していたのではなく、それぞれが認定された特定の関係に在る二人の者の間の全く散発的な打明け話の域を出なかつたこと

を認めるに足る。

してみると、被告人の本件所為を目して「公然」事実を摘示して伊藤たつ子の名誉を毀損したものということはできないのであつて、被告人の所為は名誉毀損罪を構成せず、判示第一の犯罪事実に対応する本件公訴事実(主文第二項の(一))については無罪の言渡をなすべきものであり、論旨は結局理由があり、原判決中右事実に関する部分は到底破棄を免かれない。

次に、原判示第二の犯罪事実につき論旨に対し判断をするに先立ち、職権を以て調査するに、一件記録及び当審における事実取調の結果によれば、被告人は、伊藤たつ子の告訴に基づき、昭和四十年一月十二日附起訴状を以て、原判示第二事実に照応する犯罪事実を公訴事実として、親告罪に該る刑法第二百三十条第一項の罪名及び罰条により公訴を提起されているところ、

一  告訴人伊藤たつ子作成名義の昭和三十九年七月二十四日附、茂原警察署長警視前林藤松宛告訴状中には、被告人が昭和三十八年十二月初頃の午後六時頃千葉県長生郡長柄町刑部八十六番地なる当時の被告人方店舗において、井川ゆきに対し、告訴人伊藤たつ子が被告人の金員を盗んだらしい旨話し、以て公然事実を摘示して右告訴人の名誉を毀損したとの右公訴事実に照応する犯罪事実が摘示されておらず、右告訴人の司法警察員に対する昭和三十九年七月二十四日附告訴補充調書を閲しても、右犯罪事実につき告訴を補充する旨の供述記載がなく、

二  同人の司法警察員に対する同年十一月十日附供述調書中には、右犯罪事実についての被害顛末の供述記載があるが、原審第二回公判調書中証人伊藤たつ子の供述記載によれば、同人は前掲告訴状を提出した当時においては、被告人が伯耆原たか及び佐久間けいに対し、告訴人が泥棒をしているらしい旨話したことだけが判つており、井川ゆきに対しても右同様の話をしたことは右告訴状提出後に馬立みね子から聞いてはじめて知つたから、伯耆原たか及び佐久間けいに対して話した事実だけを告訴したというのであり、更に同証人の当審尋問調書中の供述記載によれば、同人は前掲告訴状を提出した後である昭和三十九年十一月初頃、被告人が井川ゆきに対し自分の名誉を傷つけるような事を話したことを知つたのであるが、この井川ゆきに対して話した事実は告訴状提出後に聞き知つた事実であり、その事には再三被告人と話し合つて仲直りする気持があり、今更その事実について被告人を告訴する気にもならず、その儘にしておくつもりで更めて告訴状を提出しなかつた、昭和三十九年十一月十日茂原警察署へ出頭した際、井川ゆき関係の事実を申し立てたのは、自分の子供が泥棒の子だと言われていることを知り、子供の姿を見て耐えられず、警察官から「貴女の母は泥棒ではない」と子供に言つて貰いたかつたからであり、井川ゆき関係の事実についても被告人を告訴しようとは考えていなかつたというのであり、

三  右井川ゆき関係の事実については、一件記録を精査するも適法な告訴が提起されたことを認めるに至らず、且つ該事実は前掲起訴状記載の爾余の公訴事実と各別個の犯罪事実に属し、包括して一箇の罪を構成しいわゆる告訴不可分の法則を適用すべき場合に該るものとは認められないから(原判示第一の犯罪事実についての判断の項中三参照)、該公訴事実についての公訴提起の手続はその規定に違反したため無効であるときに該当し、判決で公訴を棄却しなければならなかつたものであり、原判決中判示第二の犯罪事実に関する部分は、不法に公訴を受理したことが明らかであるから、論旨に対する判断を俟つまでもなく破棄を免がれない。

そこで、刑事訴訟法第三百九十七条第一項、第三百八十条、第三百八十二条、第三百七十八条第二号前段により原判決中有罪の部分を破棄し、同法第四百条但書に則り当裁判所において次のとおり自判する。

本件公訴事実中、主文第二項(一)の点については同法第四百四条、第三百三十六条により被告人に対し無罪の言渡をなし、同(二)の点については同法第四百四条、第三百三十八条第四号により本件公訴を棄却すべきものとし、よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 坂間孝司 栗田正 近藤浩武)

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